シンガポール

  • ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ
    2012年9月、シンガポールに初めて行きました。 街にはいろいろ興味深いものがありました。

天王寺七坂スケッチ

  • 逢坂
    スケッチで天王寺七坂を描く

2016年7月25日 (月)

広島訪問

勤めていた会社の同期のメンバーで広島に行きました。同期の一人が定年後に広島の実家に帰って農業などをしているので、今回の同期会は2泊3日の広島訪問とすることにしました。

初日は大阪から5人が車に同乗して、宮島近くのサービスエリアで現地メンバーと合流後、厳島神社に行き、広島市内のホテルに車を置いた後、近くの平和記念資料館や平和記念公園、原爆ドームなどを見ました。2日目は呉の「大和ミュージアム」と「てつのくじら館」を見た後、同期メンバーが住む北広島町で彼の生活ぶりをいろいろ見せてもらいました。3日目は吉川元春屋敷跡を見た後、帰路につきました。

宮島の厳島神社は以前にブログに書いたので説明は省略します。今回は弥山(みせん)に登りたかったのですが、ロープウェイが運休で残念でした。

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「広島平和記念資料館」は大学に入る前に来ただけで展示内容はほとんど忘れていました。建物に入ったところに「地球平和監視時計」というものが置かれていました。時計板の下に「広島への原爆投下からの日数 25909日」、「最後の核実験からの日数 189日」と表示されていました。

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展示は原爆の投下から始まります。

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展示には焼けた衣服やケロイドなど悲惨な状態が多くありましたが、悲惨すぎて写真に収めることはできませんでした。今年アメリカのケリー国務長官やオバマ大統領がが来館し、強い衝撃と痛切な感銘を受けたことが理解できました。

展示は被災者の悲惨な状況だけでなく、熱風や放射能、爆風による影響・被害についての技術的な側面からも詳細に描かれています。また、当事者が誰であれ、原爆投下はあってはならないとの中立的な立場で構成された展示であるように感じました。

今回、展示を見て初めて「建物疎開」のために動員されていた多くの中学生が被爆したことを知り、さらに戦争の残酷さを感じました。

入館者には外国人、特に白人が多く、若い人たちのグループや、小さな子供に展示品を説明している親子連れを多く見かけました。静かに小さな声で話している姿は、強い感銘を受けているように見えました。この館の展示を見た人達から平和への思いが世界中に拡がってほしいと思いました。ちなみに資料館の外国人入館者は2013年は約20万人で、トリップアドバイザー調査で「外国人に人気の観光スポット」の第1位、2014年は伏見稲荷に次いで2位だったそうです。

オバマ大統領から贈られた「折り鶴」が大統領の直筆のメッセージとともに置かれていました。

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「広島平和記念公園」は静かな雰囲気に包まれ、オバマ大統領が花輪を捧げた「原爆死没者慰霊碑」の向こうには原爆ドームが見えます。慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませんから」の言葉があります。

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原爆ドームの方に進むと、「平和の灯(ともしび)」や「原爆の子の像」がありました。

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川を渡り「原爆ドーム」に行くと、前の大きな説明パネルに投下前のドームの状態などの写真や説明がありました。パネルがあるのは建物の正面に向かって右側で、下の写真では左端の部分が玄関になっています。

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原爆ドームは原爆投下当時は「広島県産業奨励館」でした。平成8年に世界遺産に登録されています。

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翌日は朝から呉に移動して「大和ミュージアム」と「てつのくじら館」を見ました。

大和ミュージアムは正式には「呉市海事歴史科学館」というそうで、戦艦大和の10分の1の模型があることで有名です。

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ボランティアガイドさんの案内で約1時間見て回りました。案内はタブレット端末を駆使して、動画あり、詳細の数値データありで、話も上手でわかりやすいものでした。

大和は当時の高い日本の技術をベースにして性能・機能を作り上げた期待の星といった存在だったようですが、時代が戦艦から航空機に変わってきた時期に投入されたため、支援任務が多く大きな戦果を上げることなく、沖縄特攻作戦に出撃し最期を迎えました。

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ガイドさんがぜひとも見せたいと言われたのが、下の写真の「震洋(しんよう)」で、小型のベニヤ板製のモーターボートの艇首に小さな爆薬を積んだ1人または2人乗りの特攻兵器です。特攻というと神風や人間魚雷「回天」を思い出しますが、震洋のようなものまで作っていたのは驚きでした。

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大型展示として、ゼロ戦や回天の試作機、特殊潜航艇「海龍」(写真右)なども見ることができました。

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「てつのくじら館」は正式には「海上自衛隊呉資料館」で、建物の前の大きな潜水艦が目を引きます。


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2階に機雷・掃海艇の展示がありました。掃海作業は海上自衛隊の国際貢献の一つですが、第2次大戦後、多くの機雷によって恐怖の海と化した日本の海の機雷除去に始まると説明されています。機雷は海底に沈められた四角い箱とワイヤーで結ばれていて、7,8mの深さに浮かんでいる機雷の球形の表面にある突起に艦艇が接触することで爆発するようになっています。艦艇の磁気や音響によって爆発するものもあります。

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3階には潜水艦の展示がありました。見学した我々技術屋としての大きな疑問は、「潜水艦は水中で何の動力で動いているか」と「どのようにして浮いたり、沈んだりしているか」でした。いずれもボランティアガイドさんに聞いて、なるほどと理解しましたが、その答えは説明がややこしくなるのでここでは省略します。

展示を見たあと、本物の潜水艦に入ることができました。建物の外にあった潜水艦「あきしお」です。あきしおは全長76m、重量約2200トンで、19年間種々の任務を遂行し2004年に除籍されました。艦内の通路は狭く、通路の上部にもいろいろなものが所狭しと置かれています。写真右は一般の自衛官のベッドですが、士官用はクッションも良さそうでやはり差がつけられているようです。潜望鏡は実際に外部を見ることができますが、陸の方が見えないように回転に制限がかけられていました。

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昼からは北広島町に移動し、家の中や周りの田んぼなどを見せてもらい、暮らしぶりを見せてもらいました。毎日が充実して楽しく過ごしているようでよかったと思いましたが、都会育ちの私にはどうも無理なようです。

3日目は朝から吉川元春館(きっかわもとはるやかた)跡とその資料館に行きました。吉川元春は毛利元就の次男で兄の毛利隆元、弟の小早川隆景とともに、元就から3本の矢の教えを受けた人物です。

館は1583年頃に元春が隠居所として建てたもので、間口110m,奥行き80mの広さで、発掘により台所、井戸、トイレ、庭園などが見つかっており、台所のみ建物が復元されています。敷地から発掘された陶器などは資料館に展示されています。

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2つの建物のうち、屋根に煙出しがあるのが台所、その横の小さいのが倉庫です。倉庫には米や酒などが収納されていたそうです。

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今回の広島同期会は、同期の仲間が田舎生活を楽しんでいるのを直接見ることができたことが一番の収穫でしたが、その他にも平和資料館や大和ミュージアムなどいろいろなものを見ることができ、楽しく充実したものになりました。

2016年7月 8日 (金)

ニフレルとオオサカホイール

NIFRELとOSAKA WHEEL。2つともエクスポシティーにできた新しい娯楽施設です。エキスポシティーは万博公園にあったエキスポランドの跡地に2015年7月に開業した、日本最大級と銘打った大型複合施設です。

「ニフレル」は昨年11月に開業した、基本的には水族館のような施設ですが、ホームページを見ると「生きているミュージアム」とのキャッチフレーズや、「感性にふれる」というコンセプトが書かれています。コンセプトの後半の「にふれる」を横文字にしたのがNIFREL(ニフレル)の語源のようです。

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展示はどこも光や小物をうまく使って印象的に行われていました。下の写真は入ってすぐの第1室ですが、中央の展示は小さな山に赤いエビがたくさん張り付いていました。
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全体的には変わったもの、珍しいもの、面白いものを集めてきて、うまく見せているという感じで、その一部を挙げてみました。小さな魚も多くあったのですが、カメラのせいか、腕前のせいかピンぼけが多く、比較的動きの遅いものだけになってしまいました。

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少し大きい水槽にはサメやふぐなどが泳いでいます。 

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多くの水槽が並べられた暗くて周り3面が鏡になった部屋では、照明が特に凝っていてきれいで、魚の特徴を捉えた面白い展示がされていました。「チンアナゴ」、「ヘコアユ」、「ハナノミカサゴ」です。チンアナゴは白い泡のようなものの中に立っています。

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ニフレルでは、展示されている魚などの説明書きが特徴を端的に表現した非常に簡単なもので、わかりやすく親しみを持てるものになっています。下は上の「ヘコアユ」につけられている説明です。

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初めの部分で、ニフレルは「基本的には水族館のような施設」と書きましたが、2階にはトラ・ワニ・カバ やキツネザルやペリカンもいて、動物園のようでもあります。

ホワイトタイガーは水槽の中ににブロックの陸にどっしりと存在していました。しかし、何か寂しそうな感じを受けました。私だけでしょうか?

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2階の別の部屋では、鳥やワオキツネザルなどを放し飼いにしていました。ワオキツネザルは人間の歩くところを横切って移動します。奥の方では、ペリカンが羽根を大きく広げたり飛び上がったり、黒い「オウギバト」が床面をウロウロしています。

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ペンギンは水中を泳いだり、島に上がったりで、見ていて飽きません。 

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ニフレルはコンパクトで回りやすく、動物までも面白い楽しい形で見せてくれる水族館(?)で、子供連れにも楽しめる場所で、私も大いに楽しみました。


「オオサカホイール」は今年7月1日にオープンしたばかりの日本一高い観覧車です。

オオサカホイールの高さは123m、2位は東京の葛西臨海公園の117m,3位は東京お台場の115m,天保山は112.5mで第4位だそうです。世界では第5位で、1位はアメリカ・ラスベガスのものが168mです。2006年まではロンドンのもの(135m)が1位でしたが、2006年からは中国(160m)、2008年からはシンガポール(165m)、2014年からはアメリカとなっていて、厳しい高さ競争が展開されているようです。

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それぞれのゴンドラは6人乗り、白色で、周囲は全面透明になっていて、床も透明になっています。透明床は座ってる時は何とも感じませんが、座席を移動しようと立ち上がって下を見ると少し怖い感じがしました。窓際にカップホルダーとタブレットがありました。タブレットはテレビ放送を映していたようでしたが、いずれは周辺の情報などが提供されるのでしょう。

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高さ日本一で全周透明なので、景色は抜群です。隣のニフレルやエクスポシティーが足元に見え、モノレールの万博公園駅や彩都への分岐線も見えます。太陽の塔も高さの変化によって大きさが変化し、見える表情も違ってくるのが面白く、また、新しくできたガンバのホームグラウンド(市立吹田サッカースタジアム)も見えました。

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オオサカホイールは開業早々のせいもあって、外観も内部も真っ白できれいで、気持よく高いところからの景色を楽しみました。また、室内にタブレットを置いたり、スマホで待ち時間を確認できたり、追加料金でVIP仕様や待ち時間の短いチケットなど、いろいろな工夫が合って面白いと思いました。夏休みには長時間待ちになるのでしょうね。

2016年6月20日 (月)

玉造町歩き

昨年度の高大の先生の案内による町歩きで玉造付近を歩きました。玉造の地名は、この辺りが古代、勾玉などを作っていた玉作部の居住地であったという伝承によるものです。

地下鉄玉造駅スタートで、一度北に上がって玉造稲荷神社から越中井、次に南に下り、カトリック大聖堂、大阪女学院、長堀通りを超えて真田丸のゾーンに入ります。心眼寺から明星中学横の真田丸の顕彰碑を見て、陸軍墓地から三光神社に抜けて、元に戻るというコースでした。

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道路の真ん中に大きな木があり、その下に①「白光大神(しらみつおおかみ)」の白い鳥居がありました。鳥居の下の小さな祠には白蛇の置物が置かれていました。50mほど先の玉造稲荷神社に植えられていた榎木の種がここまで飛んできてすくすくと育ち、白蛇が住みついたという話があるそうです。

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②「玉造稲荷神社」は社伝によれば紀元前12年の創建という稲荷神社ですが、何度か焼失・再建があり、現在の社殿は昭和29年に再建されたものです。

神社の入口にある「玉造稲荷神社」の標柱の「玉造」の部分は柱の上に薄い石板が貼り付けられています。間違って文字を刻んだため訂正したのでしょうか。

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境内にはいろいろなものがありました。

豊臣秀忠像は平成23年の建立でまだ新しくきれいな像でした。何故この時期に建てられたのかはまだ調べられていません。像の後ろの埴輪の家のような建物は「難波・玉造資料館」で、玉作りの歴史や工程についての展示があるようです。

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秋田實は玉造の出身の漫才作家で、ミヤコ蝶々・南都雄二、夢路いとし・喜味こいし、秋田Aスケ・Bスケなど多くの漫才師を育てました。角柱の「秋田實笑魂碑」には「笑いを大切に」「怒ってよくなるものは猫の背中の曲線だけ」と刻まれており、その横にある自然石の碑には辞世の句「渡り来て うき世の橋を 眺むれば さても危うく 過ぎしものかな」が刻まれています。

玉造は当時陸軍第4師団司令部や多くの兵舎があった大阪城に近く、多くの兵隊のための娯楽の場として演芸場などが多かったことも彼の活躍のベースにあったのでしょうか。

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鳥居が土に埋まっているように見えるものがありますが、これは豊臣秀頼が社殿再建時に奉納した石の鳥居で、阪神・淡路大震災で損傷を受けたため上部だけが置かれているものです。脚部とは別に置かれているとネットに書かれていたので写真をよく見ると、上部だけの鳥居の後ろに柱のようなものがあるので、これが脚部かもしれません。

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社殿の横に小野小町の歌碑があります。小野小町がこの地で亡くなったという話があるようで、それにちなんだ歌碑ですが、小野小町はいろいろな伝説があって本当かどうかは「?」です。歌は「新勅撰集」の「湊入りの玉つくり江にこぐ舟の音こそたてね君を恋ふれど」です。

ちなみに小野小町は秋田生まれとの伝承があり、米の「あきたこまち」、秋田新幹線の「こまち」の名は小野小町から出ています。

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狛犬の前に井戸のようなものがあり「利休井」と書かれています。神社の近くに千利休の屋敷があったことにちなんで作られたそうです。この玉造稲荷神社がある上町台地は名水が多く、このあたりで利休も茶を立てたようです。水が良いのでかつては酒造りも行われていたそうです。

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次は北に上がったところに ③「越中井」があります。細川越中守忠興の屋敷の台所があったと伝えられる場所で、細川ガラシャ最期の地とされています。ガラシャは忠興の正室で、明智光秀の娘です。関ヶ原の戦いの直前、忠興が会津に出征の間に、豊臣家再興を企図する石田三成が決起、ガラシャはその人質になることを拒み、(キリスト教徒のため自殺できないので)家臣に自らの命を絶たせました。現在の井戸は一旦埋められた井戸を昭和34年に復元したものです。

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④大阪カテドラル聖マリア大聖堂(大阪玉造カトリック教会)は明治27年の創立ですが、大阪大空襲で滅失、現在の大聖堂は昭和38年に再建されたものです。敷地はかつての細川家の屋敷跡です。聖堂前の右手にガラシャ像、左手に高山右近像が置かれています。内部は左にガラシャ、右に右近、中央に聖母マリアが堂本印象の筆で描かれています。左右の窓には大きく美しいステンドグラス、後方にはパイプ数2400本の大きなパイプオルガンがあり、まさに壮観です。内部の写真はブログ等での公開は遠慮してほしいとのことでした。

ここは高大の授業場所(地図の☆印)からも近く、前の週に内部のスケッチに来たばかりでした。当然のことながら、まだまだ上手くは描けてはいませんが・・・。

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さらに南に下がると、⑤大阪女学院があります。大阪女学院の前身は明治10年代に創立の旧川口居留地の2つのミッションスクールで、現在は中学、高校、短大、大学(国際・英語学部)があります。女優の北川景子も卒業生だそうです。校門の右側の柱には「大阪女学院」、左側の柱には「旧 ウヰルミナ 1884創立」とあります。1884年(明治17年)に前身校の一つの「ウヰルミナ女学校」が創立されています。

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長堀通のさらに南の⑥善福寺(通称「どんどろ大師」)は「大阪の弘法大師信仰の拠点寺院の一つであった」そうです。

大坂城代であった土井利位(としつら)の屋敷が近くにあり、この寺にたびたび参拝していたため、「土井殿の大師(どいどののだいし)」の名が起こり、それが「どんどろ大師」に転化したという説があります。境内に「土井氏」と彫られた五輪塔がありました。

門前にある「お弓 おつる」母子像は歌舞伎の「傾城阿波の鳴門 どんどろ大師門前の場」に出てくる「お弓 おつる」にちなむものです。

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善福寺の横のゆるい坂道を登って行く途中に ⑦「心眼寺」がありました。 心眼寺は1622年に真田幸村・大助親子の冥福を祈るため創建された寺で、寺の定紋は創建時から六文銭で、山号は真田山だそうです。心眼寺の門の前に「真田幸村出丸城跡」の石碑がありました。

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少し進んだ大阪明星学園の横にある ⑧「真田丸顕彰碑」は今年の2月1日に除幕式が行われた出来立てホヤホヤの碑です。

真田丸は大坂冬の陣の際に、真田幸村(信繁)が大坂城の弱点が南側と見抜いて、城の南側に築いた出丸です。学園の敷地に真田丸があったので、この場所に顕彰碑が建てられました。前出の心眼寺前の石碑は真田丸の場所としては正しくないようです。

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⑨「真田山陸軍墓地」ヘは細い路地を通って裏側から入りましたが、入ったところに将校たちの大きな墓がありました。奥に進むと、下級兵詩の墓石が規則正しく並んでいました。やはり死んだ後も階級の差が残っているようです。この墓地全体では4800柱の墓と4万3000余りの遺骨が納められています。

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ここには兵士だけでなく、民間人である軍役夫(ぐんえきふ)、病院の看護人などの墓、ドイツ人捕虜の墓もありました。彼らの墓が、一等兵などの墓よりも低い場所にあったのは印象的でした。ドイツ人の墓は第1次大戦での捕虜のものですが、第2次大戦ではドイツとは三国同盟の関係になったため、俘虜と刻まれた部分がセメントで埋められています。

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墓地を出て坂を降りて来たところが⑩「三光神社」で、「真田の抜穴」と「真田幸村公之像」が並んでいます。抜穴は大坂城につながっていたというのですが、少なくとも今は入口から近いところで行き止まりになっているようです。先日行った九度山の抜穴も同じですが、幸村が策士であったため、このような抜穴の話が多く伝わっているのでしょう。

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石段の上に社殿があります。反正天皇の頃の創建(西暦410年頃?)と伝えられ、天照大神や素戔嗚尊などを祀っています。

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境内の説明書きに、鳥居が第2次大戦の戦火で片柱のみとなったと書かれていました。これを読んで鳥居を改めて見直すと、石段を上がったところにある石の鳥居は、きれいな鳥居と重なる形で片柱の鳥居があるのを見ることができました。もう片側の柱は途中で折れた形になっています。
また、三光神社は「浪速七福神」の一つにもなっていて、説明書きの横に「寿老人」の像があります。

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2016年6月13日 (月)

東北3大半島を巡る旅

東北地方を旅行してきました。

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秋田から時計周りで男鹿半島、津軽半島、下北半島をまわって三陸鉄道に乗って、鶯宿温泉、盛岡までバスで一周、4泊5日のツアーでした。

1泊目は男鹿半島。男鹿はやはり「なまはげ」です。そこここに「なまはげ」のモニュメントがあり、ホテルにも飾ってありました。

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夕食後、すぐ近くの会館でのなまはげの太鼓ショーに出かけました。なまはげ達は一所懸命太鼓を叩いたあと、観客席で写真にもポーズを取って対応してくれました。その後はイケメン揃いで筋肉モリモリの若い人たちによる太鼓の競演です。それぞれが学校の先生や公務員などの仕事を持っていて、夜だけ舞台で太鼓を叩いて週末は無料出演で地域の盛り上げを図っているそうで、海外でも公演しているようです。

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2日目の十二湖は白神山地の一角にあり、1704年の地震の際に崩山(くずれやま)の崩壊で堰き止められた川から形成されたとされています。実際には33個ほどの湖沼があるそうで、その中の「青池」は本当に青いインクを流したようで驚きでした。周りは広大なブナ林で、少しの時間散策を楽しみました。

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十二湖駅から深浦駅までJR五能線のローカル列車に約30分乗車しました。五能線は秋田県の東能代から青森県の五所川原を経由して川部を結ぶ路線です。乗車した区間の ほとんどは岩場の多い海岸沿いを走ります。

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千畳敷は1792年の地震により隆起してできた岩床の海岸です。和歌山の千畳敷とは少し違うように感じましたが、和歌山の方は新第三紀(2303万年前〜258万年前)の砂岩が打ち寄せる波の浸食を受けたものでできた経緯も違うそうです。

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竜飛崎(たっぴさき)は津軽半島の最北端で、この地下を青函トンネルが通り北海道新幹線が走っています。灯台の横を通って岬の先端に出て対岸の北海道を探しました。バスガイドさんは松前半島が見えているというのですが、どこがどうなのかよくわかりません。ものすごく強い風で一瞬足元をすくわれそうなこともありましたが、一日中風が強い場所のため風力発電の風車が並んでいました。バスに乗った途端、激しい雨が降って来ました。ラッキーでした。

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この岬には「階段国道」があります。何かの間違いで国道に指定されたという説など諸説ありますが、ウィキペディアでは、「国交省や青森県によれば、指定当初は坂道になっていて」、後に階段になったということも書かれています。階段を20段ほど降りて上がって、階段国道を体験しました。

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「津軽海峡冬景色歌謡碑」があります。ボタンを押すと「ごらんあれが竜飛岬北のはずれと・・・」の2番の歌詞が流れます。

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3日目は浅虫温泉から下北半島の西側の佐井港までバスで揺られ、そこから海岸沿いを南に下り、仏ヶ浦を観光しました。仏ヶ浦は奇抜な形の断崖・巨岩が連なる海食崖で、海岸沿いに2km以上に及んでいます。緑色凝灰岩を主とした岩石が長い間の海食によってできた地形です。高さ90m以上の岩のあるそうで、国の名勝および天然記念物に指定されています。船を降りて岩の中を歩くと「仏ヶ浦」という名前が納得できるような感じがしました。

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大間崎は本州最北端の地で、大間漁港はマグロの一本釣りで有名です。

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恐山(おそれざん)は862年の円仁(慈覚大師)の開創と伝承される曹洞宗の寺で、ウィキペディアには「地蔵信仰を背景にした死者への供養の場」と書かれています。高野山や比叡山と並ぶ「日本三大霊山」とされることがあるそうですが、私には全く違うレベルのもののように思われるのですが・・・。死者の霊と話ができる「イタコ」などを含めて、私には想像できない世界です。

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三陸鉄道の北リアス線に久慈駅から普代駅まで約40分乗車しました。久慈はNHKの朝ドラ「あまちゃん」で一躍有名になりました(私は見ていませんでした)が、日本における「北限の海女」の町です。また世界有数かつ日本最大の琥珀の産地です。店の人の話では久慈の琥珀は古い年代のものであるので品質が良いそうです。車窓から見た震災の被害地は復興と言うにはまだまだ遠い感じがしました。

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「浄土ヶ浜」は古第三紀(約5200万年前)に形成された火山岩からなる白い岩塊と同色の小石によって波静かな入江にできた美しい景観です。その名については「極楽浄土のごとし」ととある僧侶が感嘆したことによるとの説があるそうです。

浜には津波に関わる2つの石碑が並んで建っています。右側の昭和8年の昭和三陸津波の記念碑には、大地震の後には津浪が来る、大地震があったら髙い所へ集まれ、津浪に追はれたら何処でも髙い所へなどの心得が刻まれています。左側の碑には昭和35年のチリ地震の影響による津波の教訓として、「地震がなくとも潮汐が異常に退いたら津波が来るから早く高い所に避難せよ」と刻ざまれています。 

浜にはたくさんのウミネコが集まっていて、エサの「かっぱえびせん」を求めて人のすぐ近くまで寄ってきます。

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2016年6月 1日 (水)

伏見町歩き

昨年の高大大阪の町歩き科の同期会で、伏見在住の同期会メンバーのガイドで伏見を町歩きしました。

伏見は伏見稲荷大社の門前町、伏見城の城下町、江戸時代には淀川水運の重要な港町、東海道57次の54番目の宿場町(伏見宿)として栄えた町で、伝統的な日本酒の産地としても有名です。

スタートは京阪中書島駅で、地図の赤線に従って川べりを歩き、月桂冠大倉記念館を出たあと、昼食。昼食後はカッパカントリーを見て、大手筋通りの商店街を抜けて、京阪伏見桃山駅で解散です。川べりや月桂冠あたりの道路など風情があり、気持ちのよい町歩きになりました。

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伏見港公園はかつて京都と大坂を結ぶ三十石船などの水運の拠点として栄えた伏見港の跡地です。
伏見港は秀吉の伏見城築城の際に造られて、高瀬舟や三十石舟などの発着場となっていました。しかし次第に陸上交通の近代化により舟運は衰退していき、港としての幕を閉じました。ここには、その歴史をしのんで三十石舟などがあります。現在はテニスコートやプールなどの運動施設があります。

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公園を抜け川沿いの遊歩道を歩きます。ゆったりした流れでかつての十石船がモニュメントとして置かれていたり、観光用の十石船も通り過ぎていきます。遊歩道には紫陽花などのいろいろな花が植えられてよく管理されているようでした。

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川の合流点には「角倉了以水利紀功碑」がありました。角倉了以は国内諸河川の開発整備に従事し,淀川・富士川などを疎通させています。1611年に二条から鴨川の水を引き伏見に達する高瀬川を開削し,京都伏見間の水運を開通させました。

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さらに進むと対岸に龍馬とお龍の像のようなものがありました。調べてみると「龍馬とお龍 愛の旅路 像」というのだそうです。日本初の新婚旅行への旅立ちの様子なのでしょうか?

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寺田屋は「寺田屋騒動」と「坂本龍馬暗殺未遂事件」で有名な小さな船宿です。今回は内部の見学はしませんでしたが、ネットで見ると寺田屋騒動の際に残されたとされる刀傷や、お龍が龍馬暗殺未遂の際に駆け上がったとされる階段、当時の様子を伝える写真の展示などがあります。ただし、建物は鳥羽伏見の戦いで焼失後に再建されたものだそうです。

玄関横には寺田屋騒動を示す「伏見寺田屋殉難九烈士之碑」があり、横の庭には龍馬の像などがあります。

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寺田屋から出て川沿いに歩くと、対岸には酒蔵がずっと続いています。

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長建寺は朱色の土塀と中国風の朱色の竜宮門が特徴的な真言宗の寺院です。本尊は八臂弁財天で、京都で唯一の弁財天です。

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月桂冠大倉記念館は会社の歴史や酒造りの工程などがわかりやすく展示されており、お酒の試飲もできます。月桂冠は1637年の創業で、1867年の鳥羽伏見の戦いでは酒蔵などが被害を受けたものの本宅は無事で廃業を免れ、明治以降全国的な清酒メーカーとなりました。平成14年に灘の白鶴酒造に抜かれるまで数十年にわたってトップシェアを誇ってきました。

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館内の展示は月桂冠の長い歴史を感じさせるもので、興味深く見て回りました。

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昼食は大蔵記念館に付属のレストランで、月桂冠の酒を飲みながらゆったりと食事を楽しみました。この辺りは昔風の建物が続く雰囲気のいい通りになっています。

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黄桜記念館は中を素通りした形になってしまいましたが、館内には出来立ての地ビールが飲める黄桜酒場、オリジナルグッズが買える黄桜商店、昭和30年代からの
黄桜CMが見れたり、カッパの歴史を学べる黄桜記念館などがあります。黄桜といえばCMの使われていた小島功のカッパの漫画を思い浮かべますが、カッパについてのいろいろな資料が展示されているそうです。

中庭には「黄桜」が植えられています。別名「ウコン桜」ともいわれます。4月には普通の桜より10日位遅れて満開になり、10〜15枚の花びらをつける八重桜で、淡い黄緑色の花を咲かせます。

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2016年5月31日 (火)

大山崎山荘美術館

高大の遠足で大山崎山荘美術館に行きました。

JR山崎駅から天王山への登り道から途中で分かれ、美術館と書かれた石の門をくぐり、林の中を通って美術館の入口にたどり着きました。駅から約10分の結構急な登りでした。

大山崎山荘美術館は、実業家の加賀正太郎が昭和初期に建てた英国風の山荘を復元整備して、平成8年に美術館として開館しました。コレクションの中核はアサヒビールの創業者の山本爲三郎が収集したコレクションです。この美術館は正式には「アサヒビール大山崎山荘美術館」です。

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加賀正太郎は加賀証券を設立したほか、昭和9年に壽屋で山崎蒸溜所を立ち上げました。その後、「マッサン」の竹鶴政孝を支援して大日本果汁(後のニッカウイスキー)の創立に参加しています。

山荘はのちに加賀家の手を離れ老朽化し、バブル末期には建設業者が買い取りマンション建設が計画されますが、住民の景観保存運動などによりアサヒビールの樋口社長が企業メセナ活動として保存に協力することになりました。この時、当時病床にあった加賀が自らの方針に賛同してくれたアサヒビールに、保有するニッカの全株式を譲渡しニッカはアサヒビールの子会社になりました。

今回の遠足は、今年度高大で受講する「基礎美術科」の約40人です。基礎美術科では1年間で鉛筆デッサンから始め、水彩画、油彩画を勉強します。

高大は今年4年目、これまで近世、近代と歴史を2年間、去年は大阪の町歩きで、少し受け身の姿勢で過ごしてきたので、今年はよりアクティブに、ということで選びました。小中学校では絵は不得意分野だったので、今より少しでもうまく描けるようになれば、と割り切っての挑戦です。

さて、美術館ですが、ちょうど開館20周年の記念展示をしていて、モネの「睡蓮」、ドガの「バラ色の踊子」、ピカソ、シャガール、ルノアールなど有名な画家の絵や、バーナード・リーチや濱田庄司などの焼物など、いいものが展示されていたようで、私自身は絵などはよくわかりませんが、自分なりに楽しく見て回りました。また、建物は山荘風の外観もいいですが、内部も重厚で豪華で素晴らしいものでした。下はパンフレットにあった内部の写真です。

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一応館内を見て回ったあと、2階のカフェで小休止。目の前に桂川、宇治川、木津川の三川合流が見えます。

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美術館の見える広々とした庭で弁当の後、スケッチの時間、好きな景色を鉛筆でクロッキー帳に描きました。なかなか思うように描けません。最初なので、まあこんなものか!

1時間位描いたあと、庭に集まって集合写真を撮って、解散。

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解散後、一人で駅の近くにある「離宮八幡宮」を見に行きました。

離宮八幡宮は石清水八幡宮の元社に当たる神社で八幡大神を祭神としています。859年に清和天皇の勅命により、この地に「石清水八幡宮」が建立されました。離宮八幡宮の名は嵯峨天皇の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったことによります。

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貞観年間に神官が神示を受けて「長木」(てこを応用した搾油機)を発明し荏胡麻(えごま)油の製造が始まったことから、日本における製油発祥地とされています。その後「大山崎油座」の制度で荏胡麻油の製造・販売に独占的な特権を得て、畿内を中心に広範な地域を販売対象として栄えましたが、近世になると菜種油が主流となり製油の中心地としての地位を失いました。

下右写真の右は「油祖像」、左の円盤は油販売業者の店頭標識で、全国共通で使われていたそうです。

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2016年5月27日 (金)

九度山

今話題の真田幸村が関が原の戦いのあと移り住んだ九度山に行ってきました。

九度山は弘法大師が高野山開創の際に、年貢の徴収などの庶務を司る高野政所や宿泊所をおいたところです。「九度山」の名は、空海がこの政所に滞在していた母を高野山から月に9度も訪れたことによるとされています。9度というのは、「きっちり9回」ということではなく、それほど頻繁に来たという意味だそうです。

真田幸村と父の昌幸は関が原の合戦で負けた西軍に参戦していたたため、幸村の兄の信之の説得に応じた家康により高野山への蟄居を命じられ、真田家にゆかりのある「蓮華定院」に滞在します。そののち九度山に移り住みます。1611年に父昌幸がなくなりますが、幸村は大坂冬の陣の際に山を降り秀吉のもとに駆けつけるまで、ここ九度山で過ごしました。

九度山の町は下の地図のように東西に長いのですが、東西に歩いても30〜40分で行けるので、ゆっくりとそこここを見ながら歩いて回りました。今回は、「松山常次郎記念館」⑦と「旧菅野家」⑨は休館のためパスしました。

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九度山の駅から真田の赤い色が始まります。

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歩く途中の店も道案内も真田です。

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「真田のみち}を通って、最初は「真田古墳」②です。ここは長い間「真田の抜け穴」と伝承されていたそうです。覗き込んで見ると井戸のように水が溜まっていて抜け穴の出口と見えなくもありません。現状は墳丘が削られて、石室天井部が地表面と同じ高さにある、いわゆる地下式石室と呼ばれるもので、古墳時代後期の横穴式石室を持つ円墳に分類されるもののようです。

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道沿いに「米金の金時像」⑧があります。大正時代初期に焼き上げられた2mあまりの九度山焼きで、こんなに大きい陶像は世界的にも珍しいそうです。「米金」が何を指すのかわかりませんが、像の左側に「米金医院」の看板がありました。

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「真田庵」は真田幸村と父の昌幸が隠れ住んでいた屋敷跡に立つ寺で、落ちた雷を閉じ込めて村人を救ったという言い伝えが残る「雷封じの井」や、昌幸の霊を大権現の神様にして祀ったとされる「真田地主大権現」があり、大権現の横には昌幸と幸村の名が刻まれた石碑があります。

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九度山・真田ミュージアムは今年3月に開館されたばかりですが、前日のテレビニュースで66,666人目の来場者があったことが放送されていました。大河ドラマの動員力は絶大です。

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展示は関が原の戦いから大阪夏の陣までの戦況の移り変わりなども詳細に説明されており、また九度山での生活などもスクリーンで表現されていて、この時代についての知識のない私には結構面白いものでした。

道の駅で食事をして、「慈尊院」④まで20分弱歩きました。

慈尊院の「慈尊」は弥勒菩薩の別名で、弘法大師が母の死の際に弥勒菩薩の悪夢を見たため、政所に廟堂を建立し自作の弥勒菩薩像と母公の霊を祀ったことにより慈尊院と呼ばれるようになりました。高野山は女人禁制だったので、女性の高野山参りはここでするということで「女人高野」とも呼ばれています。

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写真のようにオッパイのついた絵馬がたくさんかかっていました。これは慈尊院のHPによると、「慈尊院では女性のシンボルである乳型絵馬を奉納して『子宝・安産・授乳・乳癌平癒』などを祈願する」のだそうです。

 寺の奥の方に土塀があります。寺の人の話によると1.6mもの厚さがあり、これほど分厚い土塀はあまりないそうです。

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慈尊寺の奥の119段の石段を登った所に「丹生官省符神社(にうかんしょうふじんじゃ)」⑤があります。弘法大師が政所創建の時に、守り神として地元にゆかりのある丹生都比売(にうつひめ)、高野御子の2神を祀った神社です。本殿は国の重要文化財で世界遺産の構成遺産の一部になっています。

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神社の裏手の駐車場と神社への石段の途中に、高野山の町石(ちょういし)がありました。「高野山町石道(ちょういしみち)」⑥は慈尊院から高野山へ通じる高野山の表参道で、国の史跡「高野参詣道」として指定され、世界遺産の構成資産の一部でもあります。

町石は高さ3m強の五輪卒塔婆形の石柱で、高野山の壇上伽藍・根本大塔を起点として慈尊院まで約5里(約20km)の間に1町(約109m)ごとに、計180本置かれています。駐車場のものが179番目、石段途中のものが180番目の町石です。なお、根本大塔から奥の院までの約1里(約4km)には36基の町石が置かれています。

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丹生官省符神社の奥をさらに進むと、約50段の石段の上に、「勝利寺(しょうりじ)」があります。弘法大師が42歳の時に厄除祈願のため、十一面観音を奉納されたことから厄除観音として信仰されてきました。昔は高野表参道の玄関口に当たるため多くの貴族や武士、庶民が訪れたそうですが、今は石段の上にあるためか訪れる人は多くないようです。

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真田幸村が住んでいた所ということで訪れた九度山でしたが、後半は高野山に関係深い場所を回ったため、かつて高野山への玄関口であったことが理解でき、高野山の偉大さが納得できたように思います。



2016年5月25日 (水)

ユニチカ記念館

いちょう大学の同期会でユニチカ記念館に行きました。

記念館は尼崎市にあり、阪神電車大物駅から10分ほどで、水曜日のみ開館しています。

ユニチカの前身の会社の一つが尼崎紡績で、その初代社長が前回のNHK朝ドラの広岡浅子の主人の広岡信五郎でした。ドラマの「あさが来た」つながりと、平野の町歩きガイド(ブログ参照)の際に私が担当した「大日本紡績」つながりでの今回の記念館訪問です。

尼崎紡績は明治6年の廃城令の発布により尼崎城が廃城となり、多くの尼崎藩士を窮乏から救うため、尼崎、大阪の財界人が共同出資して設立された会社です。信五郎は謡の仲間であった他の財界人とともに、最高額の出資者として名を連ねています。

記念館は尼崎紡績設立の11年後の明治33年に本社事務所として建てられたもので、尼崎市に現存する最古の洋風建築だそうです。

門は建物の裏側で、建物横を歩いて正面に向かいます。

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展示されている記念館の模型は尼崎市の工業高校からの寄贈です。館は経済産業省の近代化産業遺産、兵庫県の「景観形成重要建造物等」にされています。

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1階には天皇陛下が行幸された記念の資料・展示品や、歴代のマスコットガールのポスター、ニチボー貝塚のバレーボール関係品、大きい分厚いファイルに収められた世界の貴重なテキスタイル、などが展示されていました。

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昭和59年にPL学園の野球部がユニチカを訪問した時の寄せ書きが展示されていました。最近話題の清原や桑田の名前が見られます。

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2階への階段の壁に新歌舞伎座の緞帳が展示されていました。近くで見ると重厚で立派なものです。

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2階には会社の歴史に関する資料類が展示されていました。

ユニチカの会社史については前出のブログにも書きましたが、明治22年操業開始の平野紡績と合併した摂津紡績(明治22年設立)と、尼崎紡績(同)が合併して大日本紡績となり、後にニチボーに改称し、日本レイヨンと合併してユニチカとなっています。



今回の記念館訪問で新たに知ったことの一つは、技術者・菊池恭三の活躍の凄さでした。

彼については、前出の平野ガイドの事前調査の際に、平野紡績の操業のためにイギリスで紡績を学んだこと、大日本紡績のもととなった摂津紡績、尼崎紡績にも技術者として招聘され支配人などを務めたことなどを知り、興味を持っていました。記念館の年表で、尼崎紡績の4代目社長が菊池であったこと、菊池が社長の時に3社が合併して大日本紡績になったこと、日本レイヨンが大日本紡績から分かれた会社で、その初代社長も菊池であったことなどを知ることができました。

下左の写真の左端が初代社長の広岡信五郎、右端が4代目社長の菊池恭三です。右の写真は菊池が3社の間でどのように仕事していくかを定めた文書のようです。ネットに上がっていたユニチカの年表の明治30年の項には「菊池恭三は尼崎、摂津両社の取締役を兼務、午前は摂津へ、午後は尼崎へ出勤して懸命の努力」の記載がありました。

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昭和初期の大日本紡績時代の尼崎の工場全体模型が置かれていました。記念館は赤い矢印の上の部分の小さな建物です。敷地面積が6.2万坪の広大な工場で、左下の方にあるのは社宅のようです。

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展示の中に面白い話も書かれていました。

一つは、尼崎市の市外局番が兵庫県にもかかわらず大阪と同じ「06」となっているのはなぜか? 明治26年、当時の尼崎紡績が電話局から特別に許可を得たうえで、自社で大阪から尼崎の工場まで電柱を立て、電話回線を引きました。それが06の市外局番になった大きい要因と言われているそうです。明治26年は大阪電話交換局が開設された年、尼崎郵便電信局が電話を扱ったのは9年後の明治35年だそうです。

もう一つは、1964年の東京オリンピック。ニチボー貝塚の女子バレーボールチームを主体とした日本が決勝でソ連に3−0で快勝しましたが、その時のテレビの視聴率が66.8%(NHKと民放の合計視聴率は85%)と驚異的なものでした。その記録は現在まで破られていないそうです。

2016年5月20日 (金)

阿波座・江之子島周辺

昨年度の町歩き科の先生のガイドで町歩きする会に参加しました。参加は昨年の受講生の他、先生の関連の人、受講生の友人など、基本的には誰でも参加できる町歩きです。いろいろな人が参加できるよう、毎月1回、曜日を変えて開かれます。今回は阿波座と江之子島周辺の町歩きで20人弱が参加しました。

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地下鉄阿波座駅集合で、最初は大阪府庁跡の碑①です。府立江之子島文化芸術創造センターの場所にかつて府庁があり、碑はセンターの前に立っています。

現在の大阪府庁は3代目で、初代は江戸時代の西町奉行所(現在のマイドーム大阪の場所)に置かれ、明治7年に2代目庁舎がここ江之子島に竣工、大正15年に現在の庁舎ができるまで続きました。現在地に府庁舎が移転後は、工業奨励館、後に産業技術総合研究所として使用されていました。現在の府庁舎正面玄関内に旧庁舎の模型が展示されていますが、立派な造りのため江之子島政府と言われたそうです。

面白いのは府庁舎が港の方(西)を向いて建っていたことで、本来なら府民のいる東側に向くべきものですが、当時は外国との貿易や交流が重要視されていたため、港に入って来る外国船に向かって建てられていたということが理由のようです。

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先生が指で示している府庁舎の左にある小さな建物は初代の大阪市庁舎です。


センターの前の道を進むと、石積みが工事の囲いの下側に残されています。これは旧府庁舎の土台になっていた石積みです。工事のあと、どのような形でこの石積みが残されているのでしょうか、楽しみです。

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道路の反対側に「天満宮神幸御上陸地」の碑②があります。天神祭の船渡御がここに上陸したのです。 現在の天神祭の船渡御では、天満宮を出た神様は船に乗って川上に向かいますが、昭和20年代前半まで川下に下っていました。昭和25年代に地盤沈下によって川面から橋の下面までの高さが低くなって船が通れなくなっため船渡御が中止になり、昭和28年に現在のように川上に向かう形で再開されました。

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さらに北に進むと「大阪市庁」の碑③があります。

大阪市は明治22年に東西南北の4区により市制が施行されましたが、市制特例により市長を置かず大阪府知事が市長職務を行っていました。市制特例が廃止され、明治32年に府庁の隣に初めての市役所ができました。市庁舎は2代目の堂島を経て、大正10年に中之島に移り、昭和57年に4代目の現在の庁舎の第1期工事が竣工しています。
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木津川橋東詰に木津川橋の顕彰碑があります。木津川橋は慶応4年に川口と江之子島を結ぶ新大橋として架けられました。碑には長谷川貞信の「浪花百景之内」の「川口の新大橋」の絵があり、川口の居留地に出入りする外国人の姿やロシア帝国の国旗などが描かれています。

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木津川橋の少し東に「雑喉場橋の碑」 ④があります。かつてあった幅30mほどの百間堀川に架かっていました。この川には江戸堀川、京町堀川、阿波堀川が流れ込み、木津川に合流していました。この川と木津川に挟まれていたのが江之子島です。

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木津川と江之子島などの関係をわかりやすくするため、大阪市パノラマ地図をコピーしました。中央右側の中洲が江之子島、その上を流れるのが百間堀川、中央を斜め下に流れるのが木津川です。

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百間堀川の川筋だった道を暫く行くと、公園の隅、マンションの端に「雑喉場魚市場跡」の碑⑤と説明パネルがありました。雑喉場の魚市場は天満の青物市、堂島の米市とともに、大坂の三大市場でした。 

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中国総領事館⑥は阪神高速のさらに西にありました。近くの道路には警察のバスが停まり、各所に警官が立って警戒をしていました。

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次はずっと北に上がって、土佐堀川に架かる湊橋の南詰に「小説『泥の河』舞台の地」の碑⑦がありました。 泥の河は昭和30年代の安治川の船上生活者を描いた宮本輝の小説です。
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木津川沿いに南に下ってくると、マンションの前に「江戸堀川跡」の碑⑧がありました。

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前述の木津川橋をわたって更に南に行くと、川口基督教会⑨があります。

川口は幕末から明治初期にかけて貿易に従事する外国人が多く住み、「川口居留地」として一時賑わいましたが、港が水深が浅く大きな船が接岸できないことにより、神戸に取って代わられ衰退しました。外国人が出て行ったあとには、キリスト教各派の宣教師が定住し教会を建てて布教を行い、その一環として学校や病院を建てました。平安女学院、プール女学院、大阪信愛女学院やバルナバ病院などです。

川口基督教会は日本聖公会の教会で、大正9年に竣工、阪神淡路大震災で鐘楼の崩壊など大きな被害を受けましたが、修復され、平成9年に国の登録有形文化財になっています。

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教会内部には自由に入ることができ、写真もOKでした。左側の窓にはきれいなステンドグラスがありました。

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「カフェキサラギ」跡のパネル⑩がありました。カフェはパネルの向かい辺りにあったそうです。大阪におけるカフェの草分けで明治末〜大正初めに演劇・美術・文学などの異なる分野の芸術家が交流するサロンとして賑わったと書かれています。

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駅への帰路にある大阪市津波・高潮ステーションの道路側の端に「江之子島橋親柱」がおいてありました。低い囲いの中にあるので、気付かずに通り過ぎそうです。江之子島橋は百間堀川に架り、雑喉場橋の一つ南にありました。

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地下鉄阿波座駅近くの郵便局の横に「阿波堀川跡」の碑⑪がありました。この辺りの堀川はほとんど埋め立てられ、今は石碑でその存在を知ることしかできませんが、元の川筋を推測したり、現在の道路や建物との関係を調べたりするのも楽しいように思いました。

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2016年5月17日 (火)

渡船巡り

高大近世科の同期会のメンバー7人で大阪市の渡船(とせん)巡りをしました。

大正区、西成区、港区、此花区にまたがる8つの渡船のうち、下の地図の①から⑦の7つをバスと徒歩で繋いで回りました。歩きで8つの渡船を巡ることも可能ですが、歩きに弱いメンバーもいること、昼食もそこそこ美味しく楽しくできることなど、難しい条件を考慮して今回の幹事さんが設定してくれたコースです。

地図に★印で示した落合上渡船場は今回は時間の関係で省略です。また別の機会に乗りに行きたいと思っています。

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コースは以下の通り。地下鉄大正駅集合で、バスで

①落合下渡船場へ。船に乗って対岸で降りずにそのまま戻ってきて、徒歩で

②千本松渡船場へ。ここも対岸で降りずに、バスと徒歩で

③船町渡船場へ。対岸に渡って歩いて

④木津川渡船場に。ここは見るだけで、徒歩とバスで

  JR大正駅付近に戻って食事。食事後、再びバスと徒歩で

⑤千歳渡船場へ。対岸で降りて徒歩で

⑥甚兵衛渡船場へ。対岸まで乗って少し歩いてバスに乗り、

  天保山ハーバービレッジで下車。天保山の三角点などを見て

⑦天保山渡船場へ。ここは対岸で降りずに戻ってきて、歩いて地下鉄大阪港駅へ。

  地下鉄で弁天町まで行って打ち上げ会でビールを飲んだ解散。

大阪市営の渡船は明治40年には淀川筋を含めて29渡船場がありましたが、昭和以降、多くの橋の架橋によって渡船が廃止され平成元年から8渡船になっています。木津川渡船のみ大阪市港湾局、その他は建設局が運行しており、落合上渡船のみ一本松汽船に運行が民間委託されています。平成20年に大阪市の財政難により委託されたそうですが、他の渡船は今後どうなるのでしょうか。

この地域では橋の下を船が通過するため架橋が水面上かなりの高さとなり、歩行者・自転車にとって橋では日常利用に堪えないため、歩行者・自転車のための交通手段として渡船が残されています。渡船が市道のような位置づけのため、すべて無料で歩行者・自転車が乗船できます。バイクは乗船不可です。

利用者は8カ所で年間約208万人(平成20年)で、単純計算で1日当たり約5700人、渡船ごとに利用者数は大きく異なります。朝晩の通勤・通学時は便数も多く(多いところでは1時間に5、6便)なりますが、人と自転車でいっぱいになっているそうです。

私自身は、子供が小さい頃に自転車を連ねて2,3箇所の渡船に乗り、最近では町歩きの際に天保山渡船に3,4回乗ったことがありますが、7つもの渡船を巡るのは初めてで、この日を楽しみにしていました。

順番にコースをたどっていきます。

①落合下渡船場

落合下渡船場は木津川にあり、大正区平尾と西成区津守を結んでおり、岸壁間は138メートル、1日平均390人程度(平成20年データ;以下同様)が利用しているそうです。ここには毎年10月下旬から翌年4月下旬にかけて、数百羽のユリカモメが飛来するそうです。

ここでは大正区側から乗ってそのまま戻ってきたのですが、これができたのは大正区側に船の停泊場所や事務所があるためです。出発時刻近くになると事務所から係の人が2,3人出てきて、入口を開けて乗船者を誘導し、船を出発させます。対岸に着くと、乗ってきた人を降ろし、新たな乗船者を乗せて戻り、次の出発まで船を停泊させます。

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②千本松渡船場

同じく木津川を渡る渡船(大正区南恩加島〜西成区津守)ですが、すぐ横に両端がループ状になった千本松大橋があります。見上げるような高さのこの橋を見ると、渡船の必要性がなるほどと理解できます。昭和48年に橋が完成しましたが、それにともなって廃止されることになっていた渡しは住民の強い要望で存続することになったそうです。

岸壁間は230m、1日平均1190人もの利用があり、有効に利用されているようです。

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③船町(ふなまち)渡船場

この渡船は木津川運河の渡しで大正区の鶴町と船町を結んでいます。川幅が狭く(岸壁間75m)、昭和20年台後半から昭和30年にかけては、対岸まで船を連ね、その上に板を敷いて人や自転車が通行していたそうです。利用者は210人程度。

対岸には中山製鋼所の看板が見えます。

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中山製鋼所

少し前に業績不振の話が出ていて、大阪の代表的企業なので心配していましたが、ウィキペディアによると私的整理などをして債務超過は解消されたそうで一安心です。工場の横を歩きましたが、工場もきちんと稼働しているようでした。

この工場は高倉健、松田優作、マイケル・ダグラスなどが出演していた「ブラック・レイン」(1989年)のロケが行われています。

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④木津川渡船場

木津川にあり、大正区船町と住之江区平林を結ぶ(岸壁間238m)。1日平均180人の利用。

昭和30年から134トンのカーフェリーが運行され、乗用車から大型トラックまで運搬できる能力があったのですが、千本松大橋の開通により人と自転車のみの渡船になったそうです。大型のフェリーが運行されていたため、この渡船の管理が港湾局になっていたのでしょうか。

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木津川渡船のすぐ横の「新木津川大橋」は大正区側に3層のループがあり、住之江区側は緩やかな勾配でまっすぐに下っていきます。

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⑤千歳渡船場

大正内港を南北に結ぶ渡船(大正区の鶴町〜北恩加島)で、大阪港復興事業の一つとして内港化工事を行った際の既設の千歳橋の撤去の代わりに設けられたものです。

岸壁間371m,1日の利用は約750人です。

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⑥甚兵衛渡船場

尻無川(しりなしがわ)にある渡船で、大正区泉尾と港区福崎を結ぶ(岸壁間94m)。1日の平均利用者数は約1570人と多く、朝のラッシュ時は2隻の船が運行しているそうです。

かつて尻無川の堤は紅葉の名所で、シーズンには多くの人が集まり、そこにあった甚兵衛さんの茶店は有名だったそうです。

渡しの上流には大きなアーチ型の「尻無川水門」が見えます。台風などの時には、アーチが上流側に倒される形で大阪港からの高潮を堰き止めます。同じタイプの水門が木津川の落合上渡船場のさらに上流にあり、落合下の渡船から見ることができました。

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⑦天保山渡船場

安治川のある渡船で、天保山(港区築港)と此花区桜島を結ぶ(岸壁間400m)。利用者数は昭和42年に1700人でしたが、平成20年には900人に減っています。

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天保山公園には坂本龍馬とお龍さんの「日本初の新婚旅行 旅立ちの地」のパネルや、「日本一低い山」(4.53m)の立て札などがありました。一番低い山の地位は、東北大震災の際の津波で削られて低くなった宮城県の日和山(標高3m)に奪われ、今は虚しい立て札になっています。ただし、二等三角点のある山としては日本一低いそうです。

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丸一日かけて、回り終わったら急に疲れがどっと出てきましたが、渡船巡りを十分楽しむとともに、これまであまり来たことがなかった大正区や港区も何となく身近に感じられるようになりました。いい一日でした。幹事さんの努力に感謝!感謝!