シンガポール

  • ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ
    2012年9月、シンガポールに初めて行きました。 街にはいろいろ興味深いものがありました。

天王寺七坂スケッチ

  • 逢坂
    スケッチで天王寺七坂を描く

2016年12月 1日 (木)

今まで書いてきたこのeo(イオ)ブログが来年の3月末で終了するとのことで、Seesaa(シーサー)ブログに引っ越しました。

こちらも3月31日までは見ることができますが、更新はしないので次回からはシーサーの方をご覧下さい。

2016年11月19日 (土)

淀川べりを歩く

いちょう大学の同期会で淀川べりを歩きました。案内は旭区在住の同期会メンバーです。

スタートは地下鉄谷町線の太子橋今市駅です。下の地図の右端中央より少し上にある駅から北に上がって、淀川べりを歩き、城北公園を通って大阪工大まで戻るコースです。

ちなみに、太子橋の太子は聖徳太子のことで、四天王寺をここに建設する予定になっていたという伝承によります。

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最初は「太子橋小学校」です。

これは駅にあった地図で説明があったのですが、太子橋小学校は大阪市立の小学校でありながら、3分の1以上が守口市域内にあります。 また、太子橋今市の駅も所在地は大阪市ですが、半分以上が守口市にあります。旧国名では、大阪市は摂津、守口は河内なので、小学校は昔の国境にもまたがっていることにもなります。

校章には「太子」の文字が入っています。

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「豊里大橋」は旭区太子橋と東淀川区豊郷を結ぶ、全長561.4m、幅19.5mのA型斜張橋です。両岸に「A」の形の塔が立っています。

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「平田(へいた)の渡し」の碑が堤防の横に置かれています。平田の渡しは淀川の渡船場の中で最後まで残っていた渡しで、昭和45年に豊里大橋の完成により幕を閉じました。

写真右は淀川改修前後の淀川の位置を示すもので、平田の渡し付近では川1本分北に移動していて、改修前は右岸にあった平田が、改修後は左岸になっています。

ちなみに淀川改修は明治18年の大洪水による大きな被害を受けて、明治29年から約14年かけて明治43年に完成しています。我が国最初の本格的な治水工事とされ、上流から下流までの全体を見渡したスケールの大きな斬新な考えに基づいたもので、その範囲は琵琶湖から大阪湾におよびました。

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渡しの碑の近くに、「神戸大学ボート部遭難の碑」があります。

平成元年3月、神戸大学漕艇部のボートが強風により転覆、3人が亡くなっています。この地点より下流にある赤川鉄橋の右岸にあった漕艇部の寮から漕ぎ出して遡上中の事故でした。

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淀川の左岸を下流に向かいます。

天気がよく、ボートや野球、サイクリング、ランニングなどを楽しむ人たちがいました。

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豊里大橋の一つ下流の「菅原城北大橋」の辺りにはワンドが続き、魚釣りの人も見えます。最初に示した地図にも川沿いにワンドが並んでいるのが描かれています。

ワンドは、明治期の淀川の改修工事で、蒸気船が遡行しやすいように流れを緩めるために、両岸から川に向かって垂直に水制とよばれる構造物を設置したことによりできたものです。水制に囲まれたところに土砂がたまり、その上に水際を好む植生が繁茂し、現在のワンドの元の形が作られました。

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「菅原城北大橋」は平成元年に東淀川区菅原と旭区城北を結ぶ全長1350m、幅23.5mの斜張橋です。市内最初の有料橋で普通車の通行料が100円のため通称「100円橋」と呼ばれていましたが、平成26年から無料開放されています。

「菅原城北大橋」をくぐり抜けた所に「千人塚の碑」があります。

この碑は昭和20年6月7日の大空襲によって避難してきて亡くなられた千数百人の冥福を祈るために建立された供養塔です。毎年6月7日に慰霊法要が営まれています。

また、この碑の裏の川岸には木の杭が並んで建てられています。この木杭は避難に集まってきた人たちを示しているそうで、背の高い大人に混じって背の低い子供もたくさんいた様子がわかります。

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千人塚のところで堤防を降りると池が有りました。この池は改修前の淀川の名残だそうです。

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ここから城北公園に入ります。公園は淀川改修の跡地利用として昭和9年に開園しました。災害時の広域避難所になっていて、地下には400トンの水を貯める飲料水用耐震性貯水槽や仮設簡易トイレ用のマンホールが設置されています。

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最後は「大阪工業大学」です。

大阪工業大学は大正11年の関西工業専修学校の創設に始まり、現在は学校法人常翔学園として同じ敷地内の常翔学園中学校・高等学校を有しています。2017年には梅田キャンパスが開校予定です。

「メモリアルゲート」は、学園の初代校長・理事長の片岡安(やすし)が実施設計を行った大阪市中央公会堂の正面を模した赤レンガ造りの正門で、創立70周年記念として平成4年に建設されたものです。

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大学で一番高い校舎の16階に展望フロア「淀ビスタ」が設けられており、学生の自習や語らいの場になっています。上流側の川の曲がりや下流側のワンドがはっきりと見ることができます。

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2016年11月18日 (金)

堺・寺地町周辺町歩き

路面電車の阪堺電車阪堺線の寺地町駅周辺を歩きました。

寺地町は旧堺市街の環濠の内側、東南の隅にあり、東に少し行くと寺町、さらに行くと環濠になります。

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寺地町駅のすぐ前のエネオスのスタンドの上に、大きな「旧堺燈台」があります。何故作ったのかはわかりません。

通りの反対側にある「銀シャリ ゲコ亭」は美味しいご飯が評判の大衆食堂で、全国から一般人だけでなく、寿司職人などのプロまで集まるそうです。

昭和38年の開業以来、創業店主がご飯の味に拘って炊き方などを極めて、「飯炊き仙人」と呼ばれたそうです。平成25年からは「フジオフード」が運営していますが、引き継ぎ前、数ヶ月間、社員が店に入り込んでノウハウを受け継いだそうです。藤尾社長自身も学生時代に何度か訪問し研究していたとHPに書かれていました。また、仙人は中国に指導しに行ったとの話も聞いています。

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少し南に下がった善宗寺は南朝の末裔の寺で、かつては楠木氏が歴代住職を務めていました。門には「菊水紋」があります。楠木正成が天皇から恩賞として下賜された菊紋を畏れ多いとして下半分に水を流したとされる紋です。

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少し東に入ると、「くるみ餅」で有名な「かん袋」があります。

「くるみ餅」はくるみの餅ではなく、「お餅をくるむ」という意味で、たっぷりの抹茶色の餡に小さなお餅が数個入ったものです。

店名の「かん袋」の由来は以下のように伝えられています。

豊臣秀吉の大坂城築城の際に、店主の和泉屋徳左衛門が奉仕に参加し、天守閣の瓦を餅作りで鍛えた腕力で次々に瓦を屋根の上に放り上げていました。それを見た秀吉が、瓦が紙袋のように舞っている様に似ているとして、店を「かん袋」と名付けるように命じたということです。

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「少林寺」は中国の少林寺とは関係なく、1330年の開山時は開祖の小林修理亮の名を取った「小林(こばやし)寺」でした。

1381年に塔頭耕雲庵の住職白蔵主が、鎮守稲荷明神に參籠し、修行中に修行場に逆さに立て、「この竹杖から竹藪が再生した時、稲荷明神と白蔵主の霊が一体になり、人々を守護する」と言い残し世を去りました。このエピソードがのちに「釣狐」として上演され、以後狂言や歌舞伎関係者は「釣狐」上演の際は少林寺に參詣し、上演の成功を祈願するようになったそうです。さらに竹杖から繁茂した「逆芽竹の藪」の竹1本を祈祷を受けて持ち帰り、上演の際に杖に使用する慣習になっているそうです。

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南宗寺は前を通るだけ。寺の両側には瓦と土を積み重ねた塀がありました。こんな塀を何と呼ぶのでしょうか?

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南宗寺の近くにかつて「乳守(ちもり)遊郭」がありました。

室町時代に始まる乳守遊郭は格調の高い遊里で、江戸の吉原遊郭が開かれた時には乳守の遊女が遊郭の作法などを教えに行ったそうです。付近には遊里の名残はありませんが、電柱に「チモリ」の名が残っていました。

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乳守の通りを抜けたところにある「臨江寺(りんこうじ)」には、女性の守り神の祀る「乳守明神社」、緑の天然石の「乳守之旧跡」の碑がありました。

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「少林寺小学校」の校門前に、前身の宿院小学校の卒業生である与謝野晶子の歌碑が置かれています。少林寺小学校の起源は1872年、堺市では最も古い学校の一つで、宿院から移ってきた時に移転先の地名をとって現在の校名になっています。

歌碑には「をとうとは をかしおどけし 紅き頬に 涙流して 笛ならうさま」とあり、この弟は「君しにたまふことなかれ」の詩に詠われた弟です。

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日蓮宗の「本成寺(ほんじょうじ)」は日親により開山された寺です。日親はその思想によって厳しい迫害を受け、ついには真っ赤に焼けた鉄鍋を頭に被せられる目に遭いました。それが門前の石柱にある「なべかむり日親聖人」です。絵の中央に鍋をかぶった日親がいます。

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宿院の「デニーズ」の辺りに、かつて「卯之日座」という劇場がありました。卯之日座は今の南海電車・堺駅の近くにあった「龍神座」という芝居小屋が前身で、明治の初めに宿院に移り、明治18年に「卯之日座」に改称、第二次大戦末期の建物疎開で壊されるまで市民の娯楽の場であったそうです。

「卯之日座」の名は、宿院に住吉大社頓宮があることから、住吉大社が鎮座した卯年の卯月卯日の「卯」に因むものだと私は推測しているのですが・・・。このことは今後調べたいと思っています。左の写真は明治35年頃、右は昭和初期のものです。写真の劇場の正面の感じから、明治の頃の芝居小屋から昭和初期には映画館に変わっていたと推察しています。


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最後は「利晶の杜」で、床面の堺の旧市街地図を見ました。


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2016年10月22日 (土)

新穂高・白川郷

高山から新穂高、白川郷を1泊のバスツアーで廻ってきました。

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高山でバスを降りて最初に行ったのは「高山陣屋」。

高山市は「飛騨の小京都」と呼ばれ、江戸時代以来の城下町・商家町の姿が保存されています。2005年の町村合併によって日本で最も広い市町村になり、香川県、大阪府より広く、東京都とほぼ同じ面積だそうです。

陣屋は江戸時代に郡代・代官が治政を行った場所で、御役所や郡代(代官)役宅、御蔵などを総称です。江戸時代に飛騨が幕府直轄領となってから、支配の拠点となった役所で、郡代役所の主要建物が残っているのは全国でもここだけだそうです。

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古い町並みがある上三之町をゆっくり歩きました。一般の民家もありますが、改装して店にしている家が多く並んでおり、風情のある町並みになっています。上一之町、上二之町にも古い家が多くありますが、新しい家が多く風情はあまりありません。

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通りには店や一般民家の中に高山祭の屋台の倉庫がありました。

高山祭りは春4月と秋10月に行われますが、春の高山祭(山王祭)は日枝神社の例祭、秋の高山祭(八幡祭)は櫻山八幡宮の例祭です。高山祭とはこのふたつをさす総称で、日本三大美祭の一つだそうです(他の二つは祇園祭と秩父夜祭り)。

高山祭の屋台の起こりは1718年頃だそうですが、からくり人形で有名です。春は12台、秋は11台の屋台が曳かれるそうです。

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「旧高山町役場」は明治28年に元の町会所の跡地に建てられたもので、公民館として使われた後、昭和61年市政記念館としてかつての高山町から現在の高山市に至る行政資料を保存・展示しています。

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町の風情に合わせて銀行やコンビニが町家風に作られたり、地味な色調にされたりしていました。

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町を歩きながら、飛騨牛の串焼きや五平餅を食べましたが、五平餅は御幣餅とも書き、中部地方南部の山間部に伝わる郷土料理で、潰したご飯を串焼きにしたものです。五平餅の語源は、形が神に捧げる「御幣」に似ているから、とするのが一般的で、五平または五兵衛が作って食べたからという説もあるそうです。

宿泊は高山から少し走った奥飛騨温泉郷の新平湯温泉でした。


2日目は新穂高ロープウェイで西穂高岳の中腹の展望台に上がり、晴天の北アルプスの壮大な景色を楽しみました。

2つのロープウェイを乗り継いで展望台まで上がります。第1ロープウェイは全長573m、標高差188m、45人乗りで所要時間は約5分、第2ロープウェイは全長2598m、標高差約848m、2階建てのゴンドラで121人乗り、所要時間約7分です。実際には観光客や登山客が多いので、乗る前、乗り換え時の待ち時間が長く、乗っている時間の数倍の時間がかかります。

写真は第1ロープウェイの下の新穂高温泉駅と、第1、第2のゴンドラです。

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終点の西穂高口駅屋上の展望台は標高は2156mで、ほぼ360度見渡せます。最初の写真の左の方の尖ったのが槍ヶ岳です。

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展望台にある郵便ポスト「やまびこポスト」は通年集配可能なポストとしては最高所にあるものだそうです。

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次は白川郷。

世界遺産になっている合掌造りを見て回りました。

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大きな駐車場から庄川を渡って合掌造り集落に入ります。

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集落の中の明善寺の門は茅葺きの鐘楼門で、このような門を見たのは初めてで、印象的でした。本堂も茅葺きで総ヒノキ造りで、これも全国的に珍しいそうです。

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合掌造りの町並みはやはり絵になります。

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長瀬家は明治28年築だそうですが、茅葺の屋根は草や苔などで緑がかっていました。茅は何十年かで葺き替えますが、村の人達が協力しあって作業している様子が写真にありました。

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3階には農作業の道具類などが置かれており、柱や梁などの木材は縄できつく締めて結合されていました。

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和田家も同じような造りです。

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集落の外れの丘を登ると、よく風景写真にあるような集落全体の風景を見ることができました。

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坂の途中に丁度葺き替えしている家がありました。10人足らずで作業をしているようでした。

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お店や売店も茅葺き屋根です。

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集落内で見かけたマンホールと溝の蓋には合掌造りの家並みが描かれていました。

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2016年10月19日 (水)

中崎町町歩き

中崎町町歩きに参加しました。去年の高大町歩き科の先生主催で月例の町歩きです。

下の地図は大正8年のもので、梅田、天六、中津のトライアングルは現在も同じですが、天六ー中津の東西に走る阪神北大阪線は廃止となり、破線の梅田ー天六の当時計画中の市電も長く活躍したのち廃止となり、梅田ー中津の当時の箕面有馬電気鉄道のみが現在阪急として残っています。


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地下鉄の中崎町集合で、少し北に入ると①「韓国民団大阪府地方本部」がありました。略称「民団」は正式には「在日本大韓民国民団」といい、創設は1946年、日本在住の韓国人、日本などに帰化して韓国籍を離れた人などが会員で会員数約50万人、韓国政府から年間約80億ウォンの支援を受けているそうです。

民団の左にある最上部が水色の「クリアウェイセンター」は駐車違反を処理する施設だそうです。この付近にはイトマン事件の許永中の家があったそうです。

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②「大阪韓国文化院」は「関西地域の皆様方に多様な韓国文化を紹介し、文化を通じて韓日間の交流拡大と協力を支援する窓口としての役割を担ってい」るのだそうです。4階の廊下に韓国の芸術品の展示や韓国からみのポスターなどがありました。

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「旧阪神北大阪線」は、野田から神戸までの「旧阪神国道線」と野田でつながっているため、この部分も阪神国道線と誤解されていることが多いようです。この部分の道路は線路を取り除かずに舗装されているため、中央部が少し盛り上がっています。 

③「市設南浜墓地」は江戸時代の「南濱墓地」の場所にあります。南濱墓地は「大坂七墓」の一つで、行基によって建てられた日本最古の墓所・火葬場です。当時、墓地は町の周辺に作られており、他の梅田、葭原(よしはら)、蒲生、小橋、鳶田(飛田)、千日の墓地も当時の大坂の町を囲むような形で存在していました。 当時は「大坂七墓巡り」が行われていたそうです。 下の地図は明治初期のものです。

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墓地の横に小さなお堂があり、前の石柱には正面に「行基菩薩開基南濱墓所」、側面には「道引之地蔵」とあります。堂内の説明書きには、子供を授かるように祈願していた天満の住人の前に行者が訪れ、南濱墓地の南光地蔵尊を信仰するように話します。それに従うと子供を授かったので、明治24年にこのお堂を建立し現在に至っている、と書かれています。

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しばらく歩くとJRの高架下の道路の先に④「源光寺」が見えます。

「源光寺」は747年に聖武天皇の勅願により行基が創建しました。もとは平生寺と号した大伽藍でしたが、やがて衰退し、荒廃を嘆いた法然上人が寺号を源光寺と改め復興しました。1830年に火災により、堂宇他一切のものが焼失しますが、本尊は火難を免れました。現在の堂宇は1861年の再建によるものです。

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境内に一対の石燈籠がありました。石灯籠には、片側には「施主 女六百人」、他方には「世話人 堂島 升五」と刻まれており、当時、堂島の遊女たちがこの寺にお参りに来ていたことがわかります。また正面左端の鐘楼は立派なものでした。

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再び道路の南側を歩くと、古い家が並ぶ通り⑤に出ました。この辺りには若い人たちが古い家を改築してお店にしているところが多くあります。

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⑥「大阪能楽会館」は1959年にできた観世流の能を演じるホールです。

外壁にある能裝束の大きなレリーフが目印になっています。設計は竹腰健造です。竹腰は長谷部鋭吉とともに日建設計の母体である長谷部竹腰建築事務所を創業しており、現在の三井住友銀行大阪支店、大阪取引所、大阪市立図書館などを設計しています。

西中津を歩くと、⑦「ダイキン工業」の本社があり、ピチョンくんがいました。大正13年設立のダイキンは大阪砲兵工廠の納入業者から始まり、現在は連結売上2兆円、空調事業で世界一、フッ素科学製品で世界第2位、海外売上比率7割、従業員の8割が海外で働いている世界的なメーカーです。

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少し歩くと⑧「マルニ」があります。マルニは食塩メーカーで、エンリッチ塩で知られています。エンリッチ塩という言葉は聞いたことはありますが、どんな塩かは全く知りませんでした。今回HPを調べてると、サラサラとした使いやすい塩で、湿気の多い台所などでも湿りにくく、食卓から調理用としてもピッタリなのだそうです。

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マルニの創業者の二宮忠八は明治時代の飛行機の研究者で 京都の八幡市に飛行神社を創建しています。門柱の「マルニ株式会社」の下に「飛行神社大阪連絡所」と書かれています。

忠八は陸軍従軍中に「飛行器」を考案し、ゴム動力による「模型飛行器」を製作し、軍用として「飛行器」の実用化の考えは軍には理解されず、軍をやめた後、独自に開発を進めましたが完成には至っていません。

彼の死から18年後、英国王立航空協会は自国の展示場に忠八の「玉虫型飛行機」の模型を展示し、「ライト兄弟より先に飛行機の原理を発見した人物」と紹介しているそうです。



2016年9月29日 (木)

住吉区の町歩き

5回シリーズの「すみよし歴史案内人の会」主催の講座に参加しました。

会員の方々による、住吉の歴史についての座学、区内の寺などを現地に行く代わりにパワーポイントで見せながらガイドする「バーチャル町歩き」、住吉大社周辺の現地ガイドなどがあり、住吉区のガイドポイントの概要を知ることができました。説明される方々はよく勉強して、しっかりと説明されており、やはり地元愛が大きなモチベーションになっているように感じました。

5回目の最終日は、JR長居駅から住吉大社までいにしえの「磯歯津道(しはつみち)」に沿っての町歩きです。

磯歯津道というのは住吉大社の南にあった「住吉津(すみのえのつ)」から大和に通じる古代の街道で、遣唐使、遣隋使や外国の使節なども使ったと考えられています。

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地図の⑧と⑪は3回目の現地見学で行ったところです。

①「多米社(ためしゃ)跡」は駅の少し北にありました。多米社は別名苗見神社、種貸神社と呼ばれ、古代の豪族・多米連が創建したといわれ、延喜式内社の古い神社です。

住吉大社の御田植祭の苗をここで栽培したとされ、現在は住吉大社の種貸社として合祀されています。

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②「神須牟地神社(かみすむじじんじゃ)」は、鳥居の前の由緒書には「延喜式内の古社であって三の宮と称され遠く二千年昔の御創建である」とあります。酒造・医薬の祖神として、また地の氏神として厚い信仰があります。多米社はこの神社の境外末社でした。

本社殿は慶長年間兵火にあいましたが、豊臣の浪人多賀谷氏ら協力で1618年再建されました。その後、廃滅に瀕しましたが、1736年徳川幕府は神須牟地神社と多米社に石碑をそれぞれ2基建立し、これらは現存しています。

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③寺岡砦跡

長居周辺にはかつて寺岡村といわれた環濠集落があり、それが発展して砦といわれるようになったとされていますが詳細は不明です。南北朝から戦国時代にかけては幾度か合戦に舞台になり、夏の陣では徳川方がここに陣を構えました。大坂城落城後は多くの豊臣方の浪人がここに落ち延びて土民となり村の開拓発展に大きく寄与したとされています。この砦の跡が神須牟地神社になっています。

左写真は「真光寺」に掲示されていたパネルで、右写真の環濠の中に「真光寺」や「神須牟地神社」の名が書かれています。

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地図の④の地点で磯歯津道から外れて南に下って⑤「細井川親水公園」に入りました。かつての細江川があったところです。細江川は依網池や旧寺岡村を水源とする約4.2kmの川で、古代は「住吉津」に流れ込んでいて、当時の流路は風光明媚でいろいろな歌人に読まれていました。現在は都市整備事業の一環として約2.5kmにわたる水路に高度処理された水が流されています。夜には水を止めるそうです。

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⑥南住吉遺跡は市営南住吉住宅敷地の西端部にあり、飛鳥時代から奈良時代にかけての16棟の建物群や土器や帯金具や古銭(和同開珎)などが出土しています。出土品から官人などの有力者の屋敷だったと推定され、7世紀を通じて造営され8世紀初め頃には廃絶したと考えられています。

⑦「荘厳浄土寺(しょうごんじょうどじ)」は10世紀の創建と伝えられ、本尊は不動明王です。白河法皇の勅により1084年に住吉大社の宮司の津守国基が再建した際に土中から発見された金札の「七宝荘厳極楽浄土・・・」の銘を寺号にしています。四天王寺にならぶ壮麗な寺院でしたが、戦火などにより荒廃しました。この寺は住吉神宮寺、津守寺と並び「住吉三大寺」と言われていましたが、この寺のみ現存し、他の寺は廃寺となっています。

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⑧「油かけ地蔵尊」は「浄光寺」にあり、その昔、疫病が流行った際に地蔵さんに油をかけると病気が平癒したとの話があり、現在はお堂の側面の穴から油をかけられるようになっています。お地蔵さんの頭は油のためか真っ黒になっていました。

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⑨「木下家住宅」は古い時代の造りで風情がある立派な建物です。厨子(つし)二階の壁には虫籠窓があり、柱を漆喰で覆って柱が見えない大壁造りになっています。

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⑩「一休禅師牀菜庵(しょうさいあん)跡」は後小松天皇の落胤と伝えられる一休宗純が移り住んだ庵です。一休は天衣無縫・反骨で終始し、京都・奈良・堺に住んだ後、住吉に移りました。1470年頃に牀菜庵をつくり、約8年間住んだ後、京田辺の酬恩庵(一休寺)に去り、そこで亡くなりました。

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⑪「池田屋本舗」は磯歯津道沿いにあり、「住之江味噌」で有名な味噌屋です。住之江味噌は美味しいと評判の「おかず味噌」です。古い町家の屋根に高灯籠が掲げられています。昭和2年生まれの19代当主が頑張っておられます。先日寄ったときに柚子味噌を買って美味しく頂きました。写真は以前に撮ったものです。

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⑫「藤沢桓夫(たけお)邸跡」の説明パネルがコンビニの敷地の角にあり、その斜め奥に曳家された書斎「西華山房(せいかさんぼう」があります。

藤沢桓夫は明治37年生まれの小説家で、「新雪」、「花粉」などの代表作があります。桓夫は、漢学塾「泊園書院」を開いた藤澤東畡(とうがい)の孫、「愛珠幼稚園」や「寒霞渓」、「通天閣」の命名者である藤澤南岳の子です。

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住吉大社の境外社の「浅沢社」、「大歳社」の前を南に進むと非常に川幅の狭い細井川(写真左)があります。川の前後で少し盛り上がった地形になっていて、川に架かる橋から南側の道路を見ると少し下ってその先がまた少し上がっているように見えます(写真右)。この辺りが⑬「住吉津推定地」だそうです。

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2016年7月25日 (月)

広島訪問

勤めていた会社の同期のメンバーで広島に行きました。同期の一人が定年後に広島の実家に帰って農業などをしているので、今回の同期会は2泊3日の広島訪問とすることにしました。

初日は大阪から5人が車に同乗して、宮島近くのサービスエリアで現地メンバーと合流後、厳島神社に行き、広島市内のホテルに車を置いた後、近くの平和記念資料館や平和記念公園、原爆ドームなどを見ました。2日目は呉の「大和ミュージアム」と「てつのくじら館」を見た後、同期メンバーが住む北広島町で彼の生活ぶりをいろいろ見せてもらいました。3日目は吉川元春屋敷跡を見た後、帰路につきました。

宮島の厳島神社は以前にブログに書いたので説明は省略します。今回は弥山(みせん)に登りたかったのですが、ロープウェイが運休で残念でした。

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「広島平和記念資料館」は大学に入る前に来ただけで展示内容はほとんど忘れていました。建物に入ったところに「地球平和監視時計」というものが置かれていました。時計板の下に「広島への原爆投下からの日数 25909日」、「最後の核実験からの日数 189日」と表示されていました。

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展示は原爆の投下から始まります。

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展示には焼けた衣服やケロイドなど悲惨な状態が多くありましたが、悲惨すぎて写真に収めることはできませんでした。今年アメリカのケリー国務長官やオバマ大統領がが来館し、強い衝撃と痛切な感銘を受けたことが理解できました。

展示は被災者の悲惨な状況だけでなく、熱風や放射能、爆風による影響・被害についての技術的な側面からも詳細に描かれています。また、当事者が誰であれ、原爆投下はあってはならないとの中立的な立場で構成された展示であるように感じました。

今回、展示を見て初めて「建物疎開」のために動員されていた多くの中学生が被爆したことを知り、さらに戦争の残酷さを感じました。

入館者には外国人、特に白人が多く、若い人たちのグループや、小さな子供に展示品を説明している親子連れを多く見かけました。静かに小さな声で話している姿は、強い感銘を受けているように見えました。この館の展示を見た人達から平和への思いが世界中に拡がってほしいと思いました。ちなみに資料館の外国人入館者は2013年は約20万人で、トリップアドバイザー調査で「外国人に人気の観光スポット」の第1位、2014年は伏見稲荷に次いで2位だったそうです。

オバマ大統領から贈られた「折り鶴」が大統領の直筆のメッセージとともに置かれていました。

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「広島平和記念公園」は静かな雰囲気に包まれ、オバマ大統領が花輪を捧げた「原爆死没者慰霊碑」の向こうには原爆ドームが見えます。慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませんから」の言葉があります。

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原爆ドームの方に進むと、「平和の灯(ともしび)」や「原爆の子の像」がありました。

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川を渡り「原爆ドーム」に行くと、前の大きな説明パネルに投下前のドームの状態などの写真や説明がありました。パネルがあるのは建物の正面に向かって右側で、下の写真では左端の部分が玄関になっています。

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原爆ドームは原爆投下当時は「広島県産業奨励館」でした。平成8年に世界遺産に登録されています。

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翌日は朝から呉に移動して「大和ミュージアム」と「てつのくじら館」を見ました。

大和ミュージアムは正式には「呉市海事歴史科学館」というそうで、戦艦大和の10分の1の模型があることで有名です。

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ボランティアガイドさんの案内で約1時間見て回りました。案内はタブレット端末を駆使して、動画あり、詳細の数値データありで、話も上手でわかりやすいものでした。

大和は当時の高い日本の技術をベースにして性能・機能を作り上げた期待の星といった存在だったようですが、時代が戦艦から航空機に変わってきた時期に投入されたため、支援任務が多く大きな戦果を上げることなく、沖縄特攻作戦に出撃し最期を迎えました。

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ガイドさんがぜひとも見せたいと言われたのが、下の写真の「震洋(しんよう)」で、小型のベニヤ板製のモーターボートの艇首に小さな爆薬を積んだ1人または2人乗りの特攻兵器です。特攻というと神風や人間魚雷「回天」を思い出しますが、震洋のようなものまで作っていたのは驚きでした。

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大型展示として、ゼロ戦や回天の試作機、特殊潜航艇「海龍」(写真右)なども見ることができました。

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「てつのくじら館」は正式には「海上自衛隊呉資料館」で、建物の前の大きな潜水艦が目を引きます。


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2階に機雷・掃海艇の展示がありました。掃海作業は海上自衛隊の国際貢献の一つですが、第2次大戦後、多くの機雷によって恐怖の海と化した日本の海の機雷除去に始まると説明されています。機雷は海底に沈められた四角い箱とワイヤーで結ばれていて、7,8mの深さに浮かんでいる機雷の球形の表面にある突起に艦艇が接触することで爆発するようになっています。艦艇の磁気や音響によって爆発するものもあります。

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3階には潜水艦の展示がありました。見学した我々技術屋としての大きな疑問は、「潜水艦は水中で何の動力で動いているか」と「どのようにして浮いたり、沈んだりしているか」でした。いずれもボランティアガイドさんに聞いて、なるほどと理解しましたが、その答えは説明がややこしくなるのでここでは省略します。

展示を見たあと、本物の潜水艦に入ることができました。建物の外にあった潜水艦「あきしお」です。あきしおは全長76m、重量約2200トンで、19年間種々の任務を遂行し2004年に除籍されました。艦内の通路は狭く、通路の上部にもいろいろなものが所狭しと置かれています。写真右は一般の自衛官のベッドですが、士官用はクッションも良さそうでやはり差がつけられているようです。潜望鏡は実際に外部を見ることができますが、陸の方が見えないように回転に制限がかけられていました。

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昼からは北広島町に移動し、家の中や周りの田んぼなどを見せてもらい、暮らしぶりを見せてもらいました。毎日が充実して楽しく過ごしているようでよかったと思いましたが、都会育ちの私にはどうも無理なようです。

3日目は朝から吉川元春館(きっかわもとはるやかた)跡とその資料館に行きました。吉川元春は毛利元就の次男で兄の毛利隆元、弟の小早川隆景とともに、元就から3本の矢の教えを受けた人物です。

館は1583年頃に元春が隠居所として建てたもので、間口110m,奥行き80mの広さで、発掘により台所、井戸、トイレ、庭園などが見つかっており、台所のみ建物が復元されています。敷地から発掘された陶器などは資料館に展示されています。

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2つの建物のうち、屋根に煙出しがあるのが台所、その横の小さいのが倉庫です。倉庫には米や酒などが収納されていたそうです。

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今回の広島同期会は、同期の仲間が田舎生活を楽しんでいるのを直接見ることができたことが一番の収穫でしたが、その他にも平和資料館や大和ミュージアムなどいろいろなものを見ることができ、楽しく充実したものになりました。

2016年7月 8日 (金)

ニフレルとオオサカホイール

NIFRELとOSAKA WHEEL。2つともエクスポシティーにできた新しい娯楽施設です。エキスポシティーは万博公園にあったエキスポランドの跡地に2015年7月に開業した、日本最大級と銘打った大型複合施設です。

「ニフレル」は昨年11月に開業した、基本的には水族館のような施設ですが、ホームページを見ると「生きているミュージアム」とのキャッチフレーズや、「感性にふれる」というコンセプトが書かれています。コンセプトの後半の「にふれる」を横文字にしたのがNIFREL(ニフレル)の語源のようです。

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展示はどこも光や小物をうまく使って印象的に行われていました。下の写真は入ってすぐの第1室ですが、中央の展示は小さな山に赤いエビがたくさん張り付いていました。
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全体的には変わったもの、珍しいもの、面白いものを集めてきて、うまく見せているという感じで、その一部を挙げてみました。小さな魚も多くあったのですが、カメラのせいか、腕前のせいかピンぼけが多く、比較的動きの遅いものだけになってしまいました。

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少し大きい水槽にはサメやふぐなどが泳いでいます。 

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多くの水槽が並べられた暗くて周り3面が鏡になった部屋では、照明が特に凝っていてきれいで、魚の特徴を捉えた面白い展示がされていました。「チンアナゴ」、「ヘコアユ」、「ハナノミカサゴ」です。チンアナゴは白い泡のようなものの中に立っています。

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ニフレルでは、展示されている魚などの説明書きが特徴を端的に表現した非常に簡単なもので、わかりやすく親しみを持てるものになっています。下は上の「ヘコアユ」につけられている説明です。

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初めの部分で、ニフレルは「基本的には水族館のような施設」と書きましたが、2階にはトラ・ワニ・カバ やキツネザルやペリカンもいて、動物園のようでもあります。

ホワイトタイガーは水槽の中ににブロックの陸にどっしりと存在していました。しかし、何か寂しそうな感じを受けました。私だけでしょうか?

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2階の別の部屋では、鳥やワオキツネザルなどを放し飼いにしていました。ワオキツネザルは人間の歩くところを横切って移動します。奥の方では、ペリカンが羽根を大きく広げたり飛び上がったり、黒い「オウギバト」が床面をウロウロしています。

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ペンギンは水中を泳いだり、島に上がったりで、見ていて飽きません。 

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ニフレルはコンパクトで回りやすく、動物までも面白い楽しい形で見せてくれる水族館(?)で、子供連れにも楽しめる場所で、私も大いに楽しみました。


「オオサカホイール」は今年7月1日にオープンしたばかりの日本一高い観覧車です。

オオサカホイールの高さは123m、2位は東京の葛西臨海公園の117m,3位は東京お台場の115m,天保山は112.5mで第4位だそうです。世界では第5位で、1位はアメリカ・ラスベガスのものが168mです。2006年まではロンドンのもの(135m)が1位でしたが、2006年からは中国(160m)、2008年からはシンガポール(165m)、2014年からはアメリカとなっていて、厳しい高さ競争が展開されているようです。

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それぞれのゴンドラは6人乗り、白色で、周囲は全面透明になっていて、床も透明になっています。透明床は座ってる時は何とも感じませんが、座席を移動しようと立ち上がって下を見ると少し怖い感じがしました。窓際にカップホルダーとタブレットがありました。タブレットはテレビ放送を映していたようでしたが、いずれは周辺の情報などが提供されるのでしょう。

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高さ日本一で全周透明なので、景色は抜群です。隣のニフレルやエクスポシティーが足元に見え、モノレールの万博公園駅や彩都への分岐線も見えます。太陽の塔も高さの変化によって大きさが変化し、見える表情も違ってくるのが面白く、また、新しくできたガンバのホームグラウンド(市立吹田サッカースタジアム)も見えました。

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オオサカホイールは開業早々のせいもあって、外観も内部も真っ白できれいで、気持よく高いところからの景色を楽しみました。また、室内にタブレットを置いたり、スマホで待ち時間を確認できたり、追加料金でVIP仕様や待ち時間の短いチケットなど、いろいろな工夫が合って面白いと思いました。夏休みには長時間待ちになるのでしょうね。

2016年6月20日 (月)

玉造町歩き

昨年度の高大の先生の案内による町歩きで玉造付近を歩きました。玉造の地名は、この辺りが古代、勾玉などを作っていた玉作部の居住地であったという伝承によるものです。

地下鉄玉造駅スタートで、一度北に上がって玉造稲荷神社から越中井、次に南に下り、カトリック大聖堂、大阪女学院、長堀通りを超えて真田丸のゾーンに入ります。心眼寺から明星中学横の真田丸の顕彰碑を見て、陸軍墓地から三光神社に抜けて、元に戻るというコースでした。

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道路の真ん中に大きな木があり、その下に①「白光大神(しらみつおおかみ)」の白い鳥居がありました。鳥居の下の小さな祠には白蛇の置物が置かれていました。50mほど先の玉造稲荷神社に植えられていた榎木の種がここまで飛んできてすくすくと育ち、白蛇が住みついたという話があるそうです。

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②「玉造稲荷神社」は社伝によれば紀元前12年の創建という稲荷神社ですが、何度か焼失・再建があり、現在の社殿は昭和29年に再建されたものです。

神社の入口にある「玉造稲荷神社」の標柱の「玉造」の部分は柱の上に薄い石板が貼り付けられています。間違って文字を刻んだため訂正したのでしょうか。

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境内にはいろいろなものがありました。

豊臣秀忠像は平成23年の建立でまだ新しくきれいな像でした。何故この時期に建てられたのかはまだ調べられていません。像の後ろの埴輪の家のような建物は「難波・玉造資料館」で、玉作りの歴史や工程についての展示があるようです。

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秋田實は玉造の出身の漫才作家で、ミヤコ蝶々・南都雄二、夢路いとし・喜味こいし、秋田Aスケ・Bスケなど多くの漫才師を育てました。角柱の「秋田實笑魂碑」には「笑いを大切に」「怒ってよくなるものは猫の背中の曲線だけ」と刻まれており、その横にある自然石の碑には辞世の句「渡り来て うき世の橋を 眺むれば さても危うく 過ぎしものかな」が刻まれています。

玉造は当時陸軍第4師団司令部や多くの兵舎があった大阪城に近く、多くの兵隊のための娯楽の場として演芸場などが多かったことも彼の活躍のベースにあったのでしょうか。

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鳥居が土に埋まっているように見えるものがありますが、これは豊臣秀頼が社殿再建時に奉納した石の鳥居で、阪神・淡路大震災で損傷を受けたため上部だけが置かれているものです。脚部とは別に置かれているとネットに書かれていたので写真をよく見ると、上部だけの鳥居の後ろに柱のようなものがあるので、これが脚部かもしれません。

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社殿の横に小野小町の歌碑があります。小野小町がこの地で亡くなったという話があるようで、それにちなんだ歌碑ですが、小野小町はいろいろな伝説があって本当かどうかは「?」です。歌は「新勅撰集」の「湊入りの玉つくり江にこぐ舟の音こそたてね君を恋ふれど」です。

ちなみに小野小町は秋田生まれとの伝承があり、米の「あきたこまち」、秋田新幹線の「こまち」の名は小野小町から出ています。

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狛犬の前に井戸のようなものがあり「利休井」と書かれています。神社の近くに千利休の屋敷があったことにちなんで作られたそうです。この玉造稲荷神社がある上町台地は名水が多く、このあたりで利休も茶を立てたようです。水が良いのでかつては酒造りも行われていたそうです。

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次は北に上がったところに ③「越中井」があります。細川越中守忠興の屋敷の台所があったと伝えられる場所で、細川ガラシャ最期の地とされています。ガラシャは忠興の正室で、明智光秀の娘です。関ヶ原の戦いの直前、忠興が会津に出征の間に、豊臣家再興を企図する石田三成が決起、ガラシャはその人質になることを拒み、(キリスト教徒のため自殺できないので)家臣に自らの命を絶たせました。現在の井戸は一旦埋められた井戸を昭和34年に復元したものです。

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④大阪カテドラル聖マリア大聖堂(大阪玉造カトリック教会)は明治27年の創立ですが、大阪大空襲で滅失、現在の大聖堂は昭和38年に再建されたものです。敷地はかつての細川家の屋敷跡です。聖堂前の右手にガラシャ像、左手に高山右近像が置かれています。内部は左にガラシャ、右に右近、中央に聖母マリアが堂本印象の筆で描かれています。左右の窓には大きく美しいステンドグラス、後方にはパイプ数2400本の大きなパイプオルガンがあり、まさに壮観です。内部の写真はブログ等での公開は遠慮してほしいとのことでした。

ここは高大の授業場所(地図の☆印)からも近く、前の週に内部のスケッチに来たばかりでした。当然のことながら、まだまだ上手くは描けてはいませんが・・・。

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さらに南に下がると、⑤大阪女学院があります。大阪女学院の前身は明治10年代に創立の旧川口居留地の2つのミッションスクールで、現在は中学、高校、短大、大学(国際・英語学部)があります。女優の北川景子も卒業生だそうです。校門の右側の柱には「大阪女学院」、左側の柱には「旧 ウヰルミナ 1884創立」とあります。1884年(明治17年)に前身校の一つの「ウヰルミナ女学校」が創立されています。

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長堀通のさらに南の⑥善福寺(通称「どんどろ大師」)は「大阪の弘法大師信仰の拠点寺院の一つであった」そうです。

大坂城代であった土井利位(としつら)の屋敷が近くにあり、この寺にたびたび参拝していたため、「土井殿の大師(どいどののだいし)」の名が起こり、それが「どんどろ大師」に転化したという説があります。境内に「土井氏」と彫られた五輪塔がありました。

門前にある「お弓 おつる」母子像は歌舞伎の「傾城阿波の鳴門 どんどろ大師門前の場」に出てくる「お弓 おつる」にちなむものです。

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善福寺の横のゆるい坂道を登って行く途中に ⑦「心眼寺」がありました。 心眼寺は1622年に真田幸村・大助親子の冥福を祈るため創建された寺で、寺の定紋は創建時から六文銭で、山号は真田山だそうです。心眼寺の門の前に「真田幸村出丸城跡」の石碑がありました。

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少し進んだ大阪明星学園の横にある ⑧「真田丸顕彰碑」は今年の2月1日に除幕式が行われた出来立てホヤホヤの碑です。

真田丸は大坂冬の陣の際に、真田幸村(信繁)が大坂城の弱点が南側と見抜いて、城の南側に築いた出丸です。学園の敷地に真田丸があったので、この場所に顕彰碑が建てられました。前出の心眼寺前の石碑は真田丸の場所としては正しくないようです。

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⑨「真田山陸軍墓地」ヘは細い路地を通って裏側から入りましたが、入ったところに将校たちの大きな墓がありました。奥に進むと、下級兵詩の墓石が規則正しく並んでいました。やはり死んだ後も階級の差が残っているようです。この墓地全体では4800柱の墓と4万3000余りの遺骨が納められています。

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ここには兵士だけでなく、民間人である軍役夫(ぐんえきふ)、病院の看護人などの墓、ドイツ人捕虜の墓もありました。彼らの墓が、一等兵などの墓よりも低い場所にあったのは印象的でした。ドイツ人の墓は第1次大戦での捕虜のものですが、第2次大戦ではドイツとは三国同盟の関係になったため、俘虜と刻まれた部分がセメントで埋められています。

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墓地を出て坂を降りて来たところが⑩「三光神社」で、「真田の抜穴」と「真田幸村公之像」が並んでいます。抜穴は大坂城につながっていたというのですが、少なくとも今は入口から近いところで行き止まりになっているようです。先日行った九度山の抜穴も同じですが、幸村が策士であったため、このような抜穴の話が多く伝わっているのでしょう。

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石段の上に社殿があります。反正天皇の頃の創建(西暦410年頃?)と伝えられ、天照大神や素戔嗚尊などを祀っています。

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境内の説明書きに、鳥居が第2次大戦の戦火で片柱のみとなったと書かれていました。これを読んで鳥居を改めて見直すと、石段を上がったところにある石の鳥居は、きれいな鳥居と重なる形で片柱の鳥居があるのを見ることができました。もう片側の柱は途中で折れた形になっています。
また、三光神社は「浪速七福神」の一つにもなっていて、説明書きの横に「寿老人」の像があります。

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2016年6月13日 (月)

東北3大半島を巡る旅

東北地方を旅行してきました。

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秋田から時計周りで男鹿半島、津軽半島、下北半島をまわって三陸鉄道に乗って、鶯宿温泉、盛岡までバスで一周、4泊5日のツアーでした。

1泊目は男鹿半島。男鹿はやはり「なまはげ」です。そこここに「なまはげ」のモニュメントがあり、ホテルにも飾ってありました。

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夕食後、すぐ近くの会館でのなまはげの太鼓ショーに出かけました。なまはげ達は一所懸命太鼓を叩いたあと、観客席で写真にもポーズを取って対応してくれました。その後はイケメン揃いで筋肉モリモリの若い人たちによる太鼓の競演です。それぞれが学校の先生や公務員などの仕事を持っていて、夜だけ舞台で太鼓を叩いて週末は無料出演で地域の盛り上げを図っているそうで、海外でも公演しているようです。

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2日目の十二湖は白神山地の一角にあり、1704年の地震の際に崩山(くずれやま)の崩壊で堰き止められた川から形成されたとされています。実際には33個ほどの湖沼があるそうで、その中の「青池」は本当に青いインクを流したようで驚きでした。周りは広大なブナ林で、少しの時間散策を楽しみました。

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十二湖駅から深浦駅までJR五能線のローカル列車に約30分乗車しました。五能線は秋田県の東能代から青森県の五所川原を経由して川部を結ぶ路線です。乗車した区間の ほとんどは岩場の多い海岸沿いを走ります。

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千畳敷は1792年の地震により隆起してできた岩床の海岸です。和歌山の千畳敷とは少し違うように感じましたが、和歌山の方は新第三紀(2303万年前〜258万年前)の砂岩が打ち寄せる波の浸食を受けたものでできた経緯も違うそうです。

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竜飛崎(たっぴさき)は津軽半島の最北端で、この地下を青函トンネルが通り北海道新幹線が走っています。灯台の横を通って岬の先端に出て対岸の北海道を探しました。バスガイドさんは松前半島が見えているというのですが、どこがどうなのかよくわかりません。ものすごく強い風で一瞬足元をすくわれそうなこともありましたが、一日中風が強い場所のため風力発電の風車が並んでいました。バスに乗った途端、激しい雨が降って来ました。ラッキーでした。

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この岬には「階段国道」があります。何かの間違いで国道に指定されたという説など諸説ありますが、ウィキペディアでは、「国交省や青森県によれば、指定当初は坂道になっていて」、後に階段になったということも書かれています。階段を20段ほど降りて上がって、階段国道を体験しました。

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「津軽海峡冬景色歌謡碑」があります。ボタンを押すと「ごらんあれが竜飛岬北のはずれと・・・」の2番の歌詞が流れます。

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3日目は浅虫温泉から下北半島の西側の佐井港までバスで揺られ、そこから海岸沿いを南に下り、仏ヶ浦を観光しました。仏ヶ浦は奇抜な形の断崖・巨岩が連なる海食崖で、海岸沿いに2km以上に及んでいます。緑色凝灰岩を主とした岩石が長い間の海食によってできた地形です。高さ90m以上の岩のあるそうで、国の名勝および天然記念物に指定されています。船を降りて岩の中を歩くと「仏ヶ浦」という名前が納得できるような感じがしました。

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大間崎は本州最北端の地で、大間漁港はマグロの一本釣りで有名です。

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恐山(おそれざん)は862年の円仁(慈覚大師)の開創と伝承される曹洞宗の寺で、ウィキペディアには「地蔵信仰を背景にした死者への供養の場」と書かれています。高野山や比叡山と並ぶ「日本三大霊山」とされることがあるそうですが、私には全く違うレベルのもののように思われるのですが・・・。死者の霊と話ができる「イタコ」などを含めて、私には想像できない世界です。

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三陸鉄道の北リアス線に久慈駅から普代駅まで約40分乗車しました。久慈はNHKの朝ドラ「あまちゃん」で一躍有名になりました(私は見ていませんでした)が、日本における「北限の海女」の町です。また世界有数かつ日本最大の琥珀の産地です。店の人の話では久慈の琥珀は古い年代のものであるので品質が良いそうです。車窓から見た震災の被害地は復興と言うにはまだまだ遠い感じがしました。

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「浄土ヶ浜」は古第三紀(約5200万年前)に形成された火山岩からなる白い岩塊と同色の小石によって波静かな入江にできた美しい景観です。その名については「極楽浄土のごとし」ととある僧侶が感嘆したことによるとの説があるそうです。

浜には津波に関わる2つの石碑が並んで建っています。右側の昭和8年の昭和三陸津波の記念碑には、大地震の後には津浪が来る、大地震があったら髙い所へ集まれ、津浪に追はれたら何処でも髙い所へなどの心得が刻まれています。左側の碑には昭和35年のチリ地震の影響による津波の教訓として、「地震がなくとも潮汐が異常に退いたら津波が来るから早く高い所に避難せよ」と刻ざまれています。 

浜にはたくさんのウミネコが集まっていて、エサの「かっぱえびせん」を求めて人のすぐ近くまで寄ってきます。

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